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   榛原高等学校剣道の歩み
   昭和20〜43

榛高剣道部 道場 鏡の間写真 昭和25年へ移動              
昭和30年へ移動 
剣道復活                   
県剣連発足 県広報54号へ  

昭和31年 同好会復活 

剣親会発足

昭和35年へ移動   
昭和40年へ移動
昭和20年 1945  榛中生が動員先で終戦を向ける

昭和21年 1946  榛原高校 運動場は サツマ芋畑

   榛原高女最後の入学式 六三制で小学校、中学校ができた。
  この年入学生は、
   22年は榛原高女中学2年生
   23年は榛原第二高校併設中学3年生とよばれた。
   24年は榛原高校1年生となった。

   21年度生は4年間 一番下の学年で生活する。
   3年間で卒業生は 併設二回卒

  榛原高校に残るものはこの学年より1年下の学年は
  新制中学で学び入学する生徒と学び榛高3回卒となる

   メーデー復活 中央公論復活 世界創刊
   第1回 国民体育大会行われた。

昭和22年 1947  榛中野球部が最終戦              
   中学校が、義務制となり、榛原高女への新入生はなく
   2,3年生は榛原高女併設中学校2,3年生と呼ぶ
   この年から高等女学校が5年生になる 
   この3月卒業しないで残った50名

   3/31教育基本法・学校教育法が施行される
   鐘の鳴る丘 向こう三軒両隣 ラジオ放送始まる
   古橋広之進 400自由形で世界新記録つくる

昭和23年 1948  榛原一高が発足 昼間定時制の募集始まる
昭和23年 全国的な同好の志が、フェンシングとの交歓試合と 
        称し、関東一円で剣道大会が行われた。

   主婦連が設立 大岡昇平「野火」 太宰治「人間失格」
   ベネディクト「菊と刀」翻訳される あこがれのハワイ航路

昭和24年 1949榛原一高と榛原二高の統合 新制「榛原高校」が発足

   7月に下山 三鷹事件 8月に松川事件 不安定な時代

                               このページの先頭へ移動

昭和25年 1950
  静大討論会優勝 と  夜間定時制78名入学
  予科と旧中3年過程終了者は2年編入

昭和25年 東京の学生連盟OBが東京剣道倶楽部を創った、
        しない(撓)競技 の形で練習・競技がなされた。

  聖徳太子肖像の1000円札発行 朝鮮戦争勃発

昭和26年 1951 
 合同卒業式と部活動の活躍 榛高愛唱歌「七彩燃ゆる」
            
 日米安保条約を締結 軍の駐留・軍事基地施設存続

昭和27年 1952 
 中学区制への拡大 農業科は全県一学区 
 培本塾生26名入学 河内利一・鈴木誠司先生赴任


昭和27年 学校スポーツ教材に採用される。
        4月 
静億県剣道連盟発足する
        剣道復興の動きが盛んになり 10月剣道連盟結成

昭和28年 1953 総合教育への挑戦 榛高音頭 榛高茶摘み歌

昭和28年 3月  第1回榛原郡剣道大会開催
        4月  川崎(今の榛原)中学校に剣道部設立される
       
7月  高校以上の学校で剣道実施してもよくなる
       12月 地頭方、御前崎中学校に剣道部設立される

昭和29年 1954 
 最後の培本塾生が卒業 
 第五福竜丸 死の灰をあびる

昭和30年 1955 
 榛高プール完成 <自由 + 民主 = 自由民主党>

昭和31年 1956 
 校内弁論大会と 
剣道同好会   
 神武景気 「もはや戦後ではない」流行語

 榛中時代天下に覇権を誇った武道場は
 昭和30年のプール建設に伴いプール東に移転
 男女更衣室と卓球場と倉庫に改装

                                  このページの先頭へ

区切り線

道の復活
   戦後、武道禁止令により、剣道は一時中断せざるを得なかった
   しかし、全国各地で、当局の目をはばかりながら、稽古を剣道
   愛好家やっていた。


   昭和23年  昭和25年 昭和27年  昭和28年 

区切り線

昭和31年
 1956 榛高剣道部の復活

       4月 小形澄夫 秋野佐一郎 先生のご尽力で
      剣道部同好会が発足

      伊村才次郎 戸塚実 秋野勇 小杉義之助先生方の
      協力も得て稽古に励む 

      昭和32年 5/20文部次官通達
      学校剣道 として剣道ができるようになった。

昭和32年 1957 農業科の募集を停止 家庭科全国で発表

      4月同好会から剣道部に昇格 各大会に望む
      5/18 県スポーツ祭から公式戦復帰
      6/16 清水市 鉄舟祭剣道大会 3位入賞 
      6/30 全国高校剣道大会 県予選 沼津市立に負け
      8/25 県総体兼東海総体 県予選 浜西に負ける
            
    尾崎敦 西郷隆雄 太田正夫 沢入敏機 小池幸夫 
    この頃から
   大石純正(亮策)
榛一高併中一卒指導に来校

   32年3月 戦後第1回の剣道部卒業生(高9回卒)
   崎敦 米沢倭 原間明良 斉藤恒 石川正和 
   寺田篤弘 松浦紀代治 
 

昭和33年 1958 
  太平橋の完成の年 イラク革命 東京タワー完成 1万円札
  高10卒
    中学での経験新入生を迎え、部員20余名。稽古も次第に
    筋目の通った充実したものになる。また榛中時代の先輩も
    稽古に立ち寄られるようになり、剣道部への関心は、逐次
    高まりを見せはじめていった。

 
    秋野年生のご尽力で、
    旧榛中剣道部卒業生の会「剣親会」が結成された。
    それは旧榛中剣道部員の結集を以て、輝かしい伝統ある
    榛中剣道部の基盤の上に再び新しい花を咲かせ、母校
    剣道部の発展に寄与する組織だった団体をとの願いからであった。 
    初代会長は、旧榛中剣道部最古参 大石専策

  5/17 県スポーツ祭で初優勝 (決勝は藤枝東)
       太田正夫 沢入敏機 小池幸夫(2年)
       大沢正臣 山口(杉山)和之 (高12卒 1年)
 

  6月 磐田市主催の大会 優勝 
  インハイ・東海四県に結びつく県大会予選は準々決勝で敗退
  
  秋の新人戦 中部大会 同メンバーで優勝
  (3年生 西郷隆雄主将 飯田雄一らの指導と
        運営があったからこそできたことを特筆すべき)
昭和34年 1959 60周年記念式典挙行 皇太子美智子様と結婚テレビ釘付け
  高11卒 体育館兼講堂落成 
  5月県スポーツ祭一年生の沢入辰義氏を加えて二連覇
  
  6/28第6回全国大会県予選 準々決勝で三島南に惜敗
            
  33年より 國學院大學 剣道部の方々がコーチにこられ
         町の講堂裏日本間(現榛原町 町民センター所在地)に
         夏合宿がおこなわれた。

            
  8/29〜30県総合体育大会 優勝
  (国体東海地区兼東海四県大会予選)清水東 焼津水産 浜松工 

  9/ 9 国体予選会
  9/10 岐阜市での東海四県大会
 
  35年3月卒業生は 
 太田正夫 小池幸夫 原科昌明 大石勝美 の4人

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昭和35年 1960 石田(池ノ谷)茂行バタフライで県優勝 浅沼委員長刺殺
 高12回卒
 5/21県スポーツ祭は、準優勝

 6/26第7回全国高校剣道大会県予選会(会場沼津商)
      静岡商を破り優勝

      個人戦 大沢正臣 優勝

 昭和16年以来 19年振り全国大会へ駒進めた

 大沢正臣 杉山和之 木村毅 大石芳郎(高12卒)
 沢入辰義 大窪欽也(高13卒)鈴木誠至郎(高14卒) 

 
8/6〜7第7回全国剣道大会(高知県民ホール)
       小牛田農林(宮城) 宮崎商(宮崎)
 
 8/27〜28県総合大会(兼国体・東海四県予選)
      個人戦 2年の部 沢入辰義 2位
      1年の部 鈴木誠士郎 3位
      団体戦 優勝 (大仁 相良 静岡商)
 
 9/17国体東海四県大会2位全国大会(静岡県初)
     対戦<木本(三重)八百津(岐阜)中京商(愛知)>

            
 10/25〜26国体(熊本県八代市立第1中学体育館)
     対戦<砺波(富山)安房一(千葉)小牛田(宮城)
         福岡(岩手)巣鴨(東京) 7位>  
 
昭和36年 1961 ガガーリン地球一周 ベルリンの壁 高13回卒

  
浅井 一つの達成はいつの日にか重要せられる価値と権威とを
      内包する。一千の才能の内蔵することは榛高の自信と誇り
      を持とうではないか。
      「剣道・陸上・水泳がめざましい活躍をなした背後には
      個々の研究と精進を古吹した校風のあったこと忘れ
      てはならない。
      形を成して人目を驚かすに至らなかった潜在の力に
       むしろ、将来が期待される」
  6/18全国高校剣道選手権県予選で二連覇(於 浜松北
        沢入辰義 大窪欽也 三輪秋義 松浦忠夫(13卒)
        鈴木誠士郎 増田勲 吉永健次(14卒)


  8/12,13第8回全国高校剣道大会に参加
       福岡(岩手) 大分商(大分) 
            
  8/19〜20県総体 準々決勝 静岡商 敗退
       個人戦 沢入 辰義氏 3年の部 優勝

       1年部 鈴木正彦2位 柴信孝3位

昭和37年 1062 
  北陸トンネル開通 てなもんや三度笠 椿三十郎がヒット 
  高14回卒
  5/19第16回県スポーツ祭 優勝 対沼商(於藤枝東)
  6/24第9回全国高校剣道選手権県予選 3位(於富士宮北)
  8/18国体 兼 東海四県大会予選 準々敗退 
  
8/19県高校勝ち抜き試合(初の形式) 優勝
       静市立 沼商 静商 興誠 

昭和38年 1963 
 ケネディ暗殺事件 焼津中央 島田工 川根 金谷設立
 高15回卒
 4/28県スポーツ祭の地区予選を兼ねる新しい方式で
     春季中部高校剣道大会 藤枝北にて開催
A、B 二チーム出場
 6/ 9全国大会地区予選 優勝  
 6/30全国大会県予選  優勝 3回目全国大会出場
      個人戦は三井敏明(15回卒)地区3位通過も
      高体連剣道部申し合わせで
      団体優勝チームの個人戦は辞退で出場してない

 
 8/7〜9第10回全国高校剣道大会(群馬・前橋商)
      三井敏明 柴信孝 松井美喜雄

     
松尾郁夫 先生喜彦 鈴木正彦
     高岡(富山) 小城(佐賀)と対戦

昭和39年 1964 
 東海道新幹線開通  生徒会長 鈴木政春(剣道部)
 
 高16回卒
  身近なものは卑近なるが故に原理をもたないのではない。
  原理から生活の中に昇華されたものが身近な美を形成する
  のではないか。
  身近な美を豊富に生み出す生活の創造に生徒会が踏み出し
  たことの意義は大きい と浅井校長は生徒会の取り組みに語った。
 春季中部地区大会 優勝

  5/16県スポーツ祭 準決勝 横須賀に 2:4で敗退
  5/23全国大会中部大会 準々決勝 敗退
  6/28全国大会県予選 3位
     個人戦 松井美喜雄 松尾郁夫 全校大会出場
            
    8月 第11回全国高校剣道大会 静岡駿府会館で開催
       松井 東西対抗にて優秀選手に選ばれる
       尚 団体戦 相良高校が3位 入賞
          個人戦 沢入博和 3位 
          吉村勝 優秀選手に選ばれる

 
 8/23県総体 兼 東海四県予選 優勝 (於 静岡商)
     
松井 松尾 枝村秀雄 田代正博 田島千寛 
     谷下 治 吉田孝一(以上16回卒)
     松井浩憲(17回卒) 相羽広志(18回卒)

 

 
9/20東海四県大会 (於 静岡商)

 昭和40、2/14中部地区では初めての新人戦 優勝
    
島田学園 清水商 島田工 清水東 静市立
    
松井秀浩 柴卓志 相羽広志 青木伸介 松井浩憲 
この年度の特記事項 女子部員 3名入部
  鈴木(内藤)公子 植田(横山)緑 小泉啓子 
  有段者で(高18回)卒業している 
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                 ・

昭和40年 1965 米国 ベトナムを爆撃 朝永振一郎 ノーベル賞
  高17回卒  新校舎の建設に着手 
            
  5/15〜16県スポーツ祭 優勝(通算4度目)
  6/13全国大会中部大会 準々決勝静高に敗退
  個人戦 松井浩憲2位 鈴木(内藤)公子優勝 小泉啓子3位
  6/27全国高校剣道大会県予選 (於 浜松商)
  個人戦 松井浩憲 3位
  8/21第13回県総体 兼 東海四県予選 出場 
昭和41年 1966 校舎と培本塾が完成 丸山薫作詞の新校歌発表
 高18回卒 おはなはん放送開始 文化大革命 巨人の星
 
 4/29中部地区高校春季剣道大会(於 静商)
      男子優勝 女子個人 植田(横山)緑 優勝

 5/21〜22県スポーツ祭 焼津水産に負け3位
 6/5全国大会中部大会 準優勝 相良に敗退
      個人戦 相羽広志 2位 

 6/26第16回全国高校剣道大会県予選(於 沼商)
      個人戦 相羽広志 4位

 8/20〜21第14回県総体 兼 東海四県予選 3位
 9/11 東海四県大会(於 愛知名鉄体育館)
      昭和35年以来6年振り 3位入賞

 相羽広志 青木伸介 小柳(松井)多賀志
 杉山正吉 柴卓志 鈴木晴生 池谷武夫

昭和42年 1967
 東京都知事美濃部亮吉 エンタープライズ佐世保へ
 陸上女子 全国制覇 42,3浅井淳校長退職
 高19回卒
 42,3 小形澄夫先生 焼津水産に転任      
 42.4 秋野佐一郎先生が指揮を執る

             

 5/20県スポーツ祭(於 藤枝西)島商に敗退
 6/4全国大会中部大会 準優勝 藤枝東に敗退
     個人戦 女子 紅林輝代 3位 
 

 6/25第17回全国高校剣道大会県予選(於 静商)
            
     国体県予選 草薙体育館 2位 
昭和43年 1968 
 新宿駅争乱 日本初めての心臓移植 映画猿の惑星
 犬塚先生教員バスケで優勝 駿遠線が廃止 高20回卒
 43,3三井敏明氏(亜細亜大卒)をコーチとして招く

 5/12東海四県中部予選会 男子準優勝
 5/19県スポーツ祭 横須賀に惜敗3位
 6/9全国大会中部大会 3位 
 6/15東海四県大会県予選会 横須賀に惜敗3位
 6/16第18回全国高校剣道大会県予選(於 島工)
     リーグ 相良 横須賀に惜敗3位

  6/30第15回東海四県総体 3位 (於岐阜長良高校)
      大垣商 上野 豊橋商 東海 と対戦
      植田修 森田護 三輪茂光 宮村壮吾(20回卒)
      鈴木通弘 増田恭久 古川正和(21回卒)

            
  本年より新人戦県大会を実施 地区大会10月実施と決定

  10/27 中部地区新人戦 (於藤枝東)男子3位
        女子個人 鈴木玲子(21回卒) 優勝
               岩本(久保田)なな子 3位
  12/1 第1回県下新人戦 (於 横須賀)
        女子個人 鈴木玲子 3位 
        女子で県大会入賞は榛高として初めて

昭和44年1969 
 4月より斉藤正衛先生 榛原高校に赴任 高21回卒
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