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    榛原高等学校 剣道の歩み 草創編 (大正時代)

榛高剣道場 東より西を見る 明治35年 1902

明治41年 1908

大正 5年 1916

大正 10年頃へ

大正 15 昭和元年

・ 

明治35年 1902 道場「講武館」(のち春風館)会館

 中條克太郎氏の設計によるもので、古式に則った幅4間長さ7間
 の道場で、狭いながらも牧之原に入植した徳川の幕臣の子孫が
 武道精神を地方の青少年に育成しようと努めた結果である。
 武道教育による心身鍛練・徳育の精神は、榛原中学、榛原高校
 の剣道部に引き継がれ、現在にいたるも本校を代表する部活動に
 なっている。            
 中條克太郎は、旧徳川幕臣 新撰組の士族開墾方頭取
 中條金之助景昭の長男で、山岡鉄舟の最後の高弟
 (榛原高校80周年校誌参考)
明治37年 1904 撃剣部大会

 明治37年12月23日を記して名にし負う春風館に於て撃剣部大会を
 挙行し、弾丸雨下の巷に驟馳する我が勇壮なる士等を思ひやると共
 に大和武士道を永久に伝えんとして日頃錬磨の効をつみし腕試しを
 なし、大いに自覚の心肝を養わんと雄心勃々遂に午前10時頃より
 一種異様な響きは惣焉として起きぬ 幕臣の指導で完成した道場で
 第1回撃剣大会を開いた。
 この頃から、学校行事として1月10日前後から3週間の寒稽古が
 行われるようになった。

明治41年 1908 初の剣道師範が着任

 原鶴吉先生が初めての武道科剣術指導者として着任。中條克太郎
 師範以下の門弟の指導が次第に少なくなり、毎日の剣道指導には
 どうしても専属の指導者が必要になった。

・明治42 1909〜1915
大正 5年 1916 
 校友会の会則によれば、武道・運動・水泳・文芸・園芸の5部を設け、
 部活動の組織化を図り、部活時間も2時間となり、明治38年からの
 対外試合禁止も解除された。

大正 6年 1917 県立榛原中学校が発足
 原鶴吉先生が退職 代わって、細江小学校教員の森(河村)新一
 先生が教授嘱託として指導にあたる。

大正 7年 1918 
 米騒動とシベリア出兵、芥川蜘蛛の糸」書く、「ノンキ節」が流行。

 鳥居吉辰先生が赴任する。
 1月26日には郡長を会長にして榛原郡尚武会が発足し、剣道を
 志す有志がこれに参加し、第1回大会が行われた。
大正 8 9 10

大正11年 1922 
 初の学芸会挙行、赤トンボ、砂山、馬賊の唄が作られた。

 田中健太郎先生栄転で加藤準蔵が着任したが11月転任。
 2月6日付けで菊池辰彦先生が講師で後を継がれる。
 大正6〜12までに指導者が6人変わることの弊害は大きかった。
大正12年 1923 
 関東大震災で講堂など被害、春よ来い、月の砂漠、等作られた。
 震災で延期されていた県下中等学校武道大会が11月18日
 静岡新築部道場で行われた。
・大正 13 14

大正15昭和元年
 1926 大正から昭和へ伊豆の踊子書かれる。柔術が柔道と改名
 10月3日 県下中等学校武道大会 
 滝井誠が沼津中の金子選手と同点決勝の末優勝し
 明治神宮剣道大会に参加資格を獲得した。
 個人戦とはいえ、公式戦で全国大会出場は滝井選手が初めて
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